東大塾長こと山田和樹です。
このページは僕の自己紹介をします。
なぜ東大を目指さざるを得なかったのか?
なぜ塾を経営しているのか?
経営している塾
東大合格発表時
東大合格発表時の写真です(2007/3/10)。
左は山田母。
ガラケー・・・時代を感じますね(笑)
アメフト部の人達に胴上げしてもらったなー。
今は安全のため禁止されているみたいですが、当時はあちらこちらで人が舞っていました。
時はさかのぼり、中学時代へ
山田が本気で勉強しだしたのは、中学3年になってからです。
それまでは部活とゲームのみ。
パワプロ(←野球ゲーム)が大好きでした。
ひたすらサクセスをやってオリジナルチームを作り、
たまり場だった友だちの家で夜までゲーム三昧だった夏休み。
実は(?)山田少年の将来の夢はプロ野球選手。
小3の頃からずっと野球を続けていました。
軟式で遠投100mいってたので結構センスがある方だったのです。
がしかし、
あるとき硬式クラブチームの見学に行った時、その夢を諦めました。
-
- このチームでダントツ1番の選手になれるか?→微妙。
-
- このチームでダントツ1番の選手になったとして、甲子園を騒がすくらい活躍できるのは一握り。
-
- 甲子園を騒がすくらい活躍できたとして、プロ野球のスター選手になれるのはさらに一握り。
-
- →無理じゃね? 確率低すぎ・・・
一方で
「勉強ならいけそう!覚えればいいんでしょ?気合いでしょ!」
と、本気で勉強を開始することを決意。
親に頼んで塾に入れてもらいました。
後に高校、大学時代に講師として働く塾です。
高校受験での屈辱
塾に入った山田少年はものすごく頑張りました。
与えられた課題はすべて完璧にこなし、小テストも絶対に満点を取る。
「覚えればいい」
ということで、頑張りました。
公立高校の入試というのは、たいがい暗記モノです。
よく理解していなかったとしても、短期記憶で高得点を取れてしまいます。
がしかし、難関私立高校となると
単なる暗記だけではまともに戦えません。
当時はそこを分かっていませんでした。
直接比較することのできない“公立入試での偏差値”だけで、
受験校を決めてしまったんですね・・・
僕の受けた私立高校の一つは渋谷教育学園幕張高校。
千葉県の最難関私立高校で、通称「渋幕」。
ろくに過去問もやらず(←敗因①)
難関校特有の思考問題の対策もせず(←敗因②)
試験本番に臨んでしまいました。
結果はというと・・・
前期・後期ともに2回撃沈・・・
さらに、普通に落ちただけじゃありませんでした。
当時中学生ながらに彼女がいたのですが、
その彼女がとてつもなく出来る子で、
なんとその渋幕に特待合格!!
彼女→特待
山田→2度も撃沈・・・
いやもう死ぬほど悔しかったし、
自分の実力の無さを呪いたくなりました。
結果的には第一志望の高校に入れたにもかかわらず、
屈辱感と敗北感でいっぱいでした・・・
ガリ勉生活のスタート
「今後の人生では、もう絶対に、勝負事に負けたくない。」
「真の実力を身に付けて、一発勝負の試験に絶対に勝利する。」
高校受験を終えた山田の頭の中はそれだけでした。
自分の定義した大学受験での勝利とは「東京大学現役合格」。
何か勉強したい分野があった訳でもなく、
将来つきたい職業があった訳でもない。
僕にとっての大学受験は、
単にプライドをかけた勝負事でした。
高校入学前から脳科学・勉強法・記憶術などを本を読み漁り、
参考書もたくさん買いたかったのでアルバイトも始めました。
それが中学の頃お世話になっていた個人塾でのバイトです。
単なるマルつけのバイトのはずが、気付いたら授業もやっていました(笑)
おかげで高校生にしてはいい給料をもらえて、
稼いだバイト代のほとんどをウン十万円レベルで参考書代につぎ込みました。
やりきった参考書もあったし、
ちょっと手を付けて結局やらなかったもの、
やっても意味がなかった参考書もたくさんありました。
大量の参考書と格闘して、
解説を読んでも分からなければ自分で考え抜いて、
何とかちょっとずつ前に進んでいきました。
このときの経験が今の大学受験指導に活きています。
その結果、
- 高1冬でセンター英語・数学9割以上
- 高2冬センター同日で88%取得(900点満点)
- 高3東大模試ではA判定連発・成績上位者ランクイン
などなど、
ほぼ完ぺきといっていいくらいの成績を叩きだせるようになりました。
そして無事に東大理一に現役合格し、高校3年間の目標を達成。
めでたしめでたし。
…
とはいかず、東大生になった山田には更なる試練と挫折が待っていました。
次の記事[東大時代]へ
コメントを残す